SSブログ

青花(あおばな)の使い道は? [植物 雑記]

梅雨明けのころの午後だったか、表石垣前を通りかかった隣家の夫人から

「今朝、初めて青花摘みに行った」と聞いた。

私は、とっさに夫人と青花摘みとの関連が直結せず、 「そうですか」とだけ返事した。

夫人は、私が青花の知識に乏しいと感じたのだろう、

「青花は京都の染め物の下絵に使われるとかです。朝早く摘まねばなりません」と付け 加えた。

 私は「早くからご苦労様でしたな」とだけ返事して、青花のことも、

夫人と青花摘みの経緯の質疑にも触れなかった。


それはさておき、私が草津へ居を移した昭和42年頃には、

付近にもまだ青花栽培が行われていて、

今の東上笠信号から私家までの西側(右手)は青花畑だった。

小学校から公民館の方などはかなり栽培されていた。

文献によれば上笠地区は江戸時代から青花栽培地だったらしい。

青花は、3月播種したものが、7月に開花し、約Iケ月の開花期に花を摘む。


花摘みは朝6蒔ころから始められ、l0時~11痔ころまでに花弁のみを早く摘み取る。

摘み取られた花弁より絞り取られた花汁(青卸)を典具帖と呼ばれた上質の美濃紙に、

天日で乾かしては刷毛で何度も塗り付け、元の紙の重さの約20匁からl00匁の重さになるまで

その作業をl00回ほど繰り返す。


完成した青花紙は1束づつ海苔のようにたたみ出荷された。

真夏の炎天下で短期間に集中的に作業をしなければならないため、

その労働の厳しさか ら地獄花、苦労花とも呼ばれた。


製品は仲買人を介して、染料問屋や友禅染めの下絵かきなどに売りさばかれた。

上笠区の小森家は、村方地主で酒造と金融業を兼営し、

また青花栽培の肥料の販売や青花紙の集荷販売を行う花村商人としての一面をもっていた。


青花紙は友禅の下書きに用いられたことから、京都との取引が主であるとされてきたが、

実際は京都よりも大阪(絵の具屋)が主体だった。


青花紙は草津特産と言っても、土産になる ものではなかったが、

そのコバルトブルーの色の鮮やかきとともに、

可憐な露草の風清は旅人の心の奥にいつまでも消えずに残る

草津宿の思い出となったであろう、と「近江の国・草津宿史話、宿場春秋」は書いている。


今では草津の伝統産業保存の意味から、小規模な栽培がおこなわれているに過ぎないようだ。

確かめてはいないが、隣家夫人は体験学習で一日奉仕されたのだろうと思う。



スポンサーリンク



タグ:青花 青花紙
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。